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真田を知る

真田略年表

1547年(天文16)
真田昌幸が生まれる。
1553年(天文22年)
真田家三男であった真田昌幸、四男の信伊(のぶただ)が武田信玄の要請により人質となる。
1560年(永禄 3年)
桶狭間の戦い」織田信長、今川義元を破る。
1566年(永禄 9年)
信繁の兄、真田信幸(のぶゆき)が生まれる。
1567年(永禄10年)
真田信繁誕生。 母は正室の山手殿(やまてどの)。
1573年(天正 元年)
武田信玄、53才で死去。武田勝頼が家督を継ぎ、真田昌幸はそのまま勝頼に従う。
1574年(天正 2年)
信繁の祖父。真田幸隆が才で死去。真田家長男の信綱が家督を継ぐ。
1575年(天正 3年)
長篠の戦い」武田勝頼、長篠の合戦で信長・家康連合軍に大敗。
信綱(39才)・ 二男の昌輝(33才)もこの戦いで戦死し、三男であった真田昌幸が甲府から真田へ帰り真田の家督を継ぐ。
1579年(天正 7年)
真田昌幸、上州名胡桃城(なぐるみじょう)を攻略。
1580年(天正 8年)
3月 真田昌幸、高野山蓮華定院(れんげじょういん)を真田の宿坊とする。
1582年(天正10年)
天目山の戦い」真田昌幸、武田勝頼を岩堰(いわびつ)城に迎えようとしたが、追手に捕まり、勝頼は自害。
武田氏滅びる。
織田軍が信濃へ進出。
真田昌幸、織田信長に馬を送り、臣従の意を表す。
本能寺の変」織田信長、本能寺で明智光秀の謀反にあい、自害する。
清洲会議が開かれる。
天正壬午(てんしょうじんごのらん)の乱」北条氏直(うじなお)が信濃国東部へ出兵し、一時上杉景勝についていた真田昌幸らは北条氏に属するも、武田の旧臣で、徳川について依田信蕃(よだのぶしげ)の誘いにのり、真田昌幸らが徳川に帰属する。
徳川家康が北条氏直と和睦。
1583年(天正11年)
真田昌幸、尼ヶ渕へ上田城を築き、居城とする。
真田昌幸、埴科郡虚空蔵山にて上杉景勝軍を破る。
賎ヶ岳の戦い」羽柴秀吉が近江国伊香郡の 賎ヶ岳で柴田勝家を滅ぼす。
9月、 秀吉、大坂城を築く。
1585年(天正13年)
真田昌幸、上杉景勝に帰属が認められる。
家康が真田昌幸を攻めるため小県真田郷に出兵。真田昌幸は上杉景勝に信繁を人質に出し、援助を求める。
第一次上田合戦。」真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を破り、天下に勇名を博すこととなる。
豊臣秀吉、関白に就任し、豊臣政権を樹立。
家康の右腕であった石川数正が徳川家を出奔し、豊臣秀吉の下へ。
徳川軍、信濃から撤退する。
信繁、秀吉に出仕。
1586年(天正14年)
秀吉が家康に真田討伐中止を命じる。
家康、秀吉の家臣となる。
真田昌幸、秀吉の命で沼田城を北条氏直に渡す。名胡桃城は真田氏に残された。
北条方の家臣が名胡桃城を奪取。
秀吉、北条氏追討の指令を出す。
1590年(天正18年)
真田信幸、徳川家康の養女小松姫を妻に迎え、沼田城主となる。
小田原征伐」秀吉と徳川軍、北条氏を攻撃。
6月、小田原城落城。
1592年(文禄元年)
文禄の役」真田昌幸父子も秀吉に従い肥前名護屋に陣を張る。
1594年(文禄 3年)
信幸が従五位下伊豆守、信繁が従五位下左衛門佐に。 ともに豊臣姓を称す。
信繁は大谷吉継の娘を妻に迎える。
1597年(慶長 2年)
慶長の役」朝鮮再出兵。
1598年(慶長 3年)
秀吉、死去。
1600年(慶長 5年)
家康、上杉景勝討伐に発つ。真田昌幸・信幸・信繁これに従う。
石田三成、大坂で挙兵。
犬伏の別れ」真田昌幸・信繁は石田(豊臣)方に、信幸は徳川方に残る。
関ヶ原の合戦」関が原で東軍・徳川勢と西軍・石田三成を主とした秀吉勢が激突 「第二次上田合戦」徳川秀忠は道中、上田城を攻撃、真田親子と戦いに。
東軍が勝利し、家康によって真田昌幸・信繁は高野山(九度山)に閉居。
信幸、信之と改名。上田城へ移る。
真田信之、戦功により上田領、沼田領合わせて九万五千石の領主となる。
1603年(慶長 8年)
家康、征夷大将軍となる。江戸幕府成立。
1611年(慶長16年)
真田昌幸、九度山にて死去(65才)
1612年(慶長17年)
真田昌幸の一周忌後、侍臣ら上田帰郷。
信繁は出家して好白と名乗る。
1614年(慶長19年)
大坂冬の陣」家康、大坂討伐命令出す。
信之病気を理由に長子信吉・次子信政が参陣。
10月、信繁、九度山から大坂へ入城。玉造口に真田丸設ける。
12月、徳川軍が真田丸を攻撃、敗退。和議成立。
1615年(慶長20・元和元年)
大坂夏の陣」家康、大坂再征を命令。
5月、道明寺の戦いで後藤又兵衛、蒲田隼人ら討死。
信繁は伊達隊と交戦。後退。
同月七日、信繁、真田大助を大坂城内へ送り、家康の本陣へ突撃、討死(49才)。 大坂城落城。
秀頼・淀君らは自害。
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